2026.09.20

山が低くなったわけではなく、アウトドアへの入り口が広がった

画像出典: adidas『山川里』アウトドアライフコンセプトムービー

「山川里」という名前を目にしたとき、私がまず感じたのは、性能を前面に出す従来のアウトドアラインというより、むしろゆっくりと過ごせる場所のようだということです。標高やスピード、征服感といったストイックな要素は抑えられ、人と山水がともに過ごすゆとりが加わっています。

今年7月、adidasは海外のアウトドア向けソーシャルメディアアカウントを「adidas TERREX」から「adidas Outdoor」に変更し、中華圏では中国語名「山川里」を採用しました。

厳密に言えば、これはadidasが突然新しいカテゴリーに参入したわけではありません。Outdoorはもともとadidasの中核となるスポーツカテゴリーで、TERREXもまた長年にわたって専門的なアウトドア製品の役割を担ってきました。変わったのは、その専門性をより幅広い人々にどのようなアプローチで届けようとしているかという、コミュニケーションの姿勢です。

「山川里」は英語名の音訳などではありません。公式の説明によれば、「山」の文字は漢代の書風である『曹全碑』の隷書体を踏襲し、山並みのシルエットを残しながら「山中を歩く人の姿」を連想させる意匠に仕上げています。「川」は篆書体の構造からなめらかな連続曲線を抽出し、流れる河川と歩むルートの双方を表現。「里」は「田+土」の構造を再構成し、人と広大な大地との繋がりを象徴しています。この3文字はTERREXを翻訳したものではなく、中国語の文脈のなかで新たにつくられたビジュアル表現なのです。

「山川里」のブランド標準書体。『曹全碑』の隷書を参照した「山」、篆書の連続曲線を取り入れた「川」、「田+土」を再構成した「里」から構成されている。画像出典:adidas「山川里」ブランドビジュアル資料

単に名前を変えただけではありません。過去に「新中式(モダン・チャイニーズ)」やアヴァンギャルドな独自美学でヒット作を生み出してきた「adidas上海クリエイティブセンター」が主導となり、東洋の自然美学を繊細なデザイン言語へと昇華させ、プロダクトのシルエットやカラーリングへ落とし込んでいます。ファーストコレクションとなるトレッキングシューズ「自由人 FREEHIKER」には、 DREAMSTRIKE ミッドソール、GORE-TEX 素材、コンチネンタル製ラバーアウトソールを採用し、「循山人 TERRAWANDER ソフトシェルジャケット」には OCTA 中空繊維を使うことで保温性と透湿性を両立させています。技術的な土台はこれまで adidas が培ってきたものと変わりません。変わったのは、その見た目と、誰に向けて語りかけるかです。

「自由人 FREEHIKER SL GTX WTR」:DREAMSTRIKEミッドソール、GORE-TEX素材、Continentalラバーアウトソールを搭載したフラッグシップモデル。画像出典:adidas公式製品資料
「循山人 TERRAWANDER」ソフトシェルジャケット:OCTA中空繊維により静止時の保温性と運動時の透湿性を高い次元で両立。谷をモチーフにした立体的なシルエットとアースカラーは、上海クリエイティブセンターによる現地化デザインの賜物である。画像出典:adidas公式製品資料

だからこそ本当に注目すべきなのは、すでに専門的な蓄積を持つブランドがどの名前を使い、誰のデザインを採用したかという点だけではありません。より多くの人に「アウトドアにも自分の居場所があっていい」と思わせられるかどうかです。

アウトドアを「どこへ行くか」から「どう過ごすか」へ

TERREX のプロフェッショナルな印象は、山岳シーンとテクノロジー・機能性から生まれています。そうしたコンテンツは信頼を築く一方で、経験のない人にとっては自分向けのギアではないと無意識に感じさせるところもありました。

「山川里」は「人は山川にあり、自由に流れる」という考えを打ち出しています。コンセプトムービーに登場するのは歩き続ける人だけではありません。歩く人もいれば、立ち止まり、観察し、休む人もいます。アウトドアの価値観を「登頂や走破といった単一の成果」に限定せず、人が自然の中でいかに豊かな時間を過ごすかという「プロセスのあり方」そのものを表現の中に組み込んだのです。

私が特に面白いと思うのは、名前にある「里」という字です。「Outdoor」が示すのは空間のカテゴリーですが、「山川里」が語るのは人と空間の関係です。人は自然の外側に立って対峙・征服しようとする存在ではなく、すでにその懐の中に抱かれている存在である、という視点です。アウトドアに初めて触れる層にとって、このアプローチは「強さを目指そう」というストイックなメッセージよりも、はるかに軽やかで心理的負担の少ないものとなっています。

『山川里』コンセプトムービーでは、観察することや立ち止まることもアウトドア体験の一部として描かれている。画像出典:adidas『山川里』アウトドアライフ コンセプトフィルム

間口を広げても、土台までは揺るがせない

もっとも、「山川里」が提示する世界観が、単なるアースカラーの配色、ゆったりとしたシルエット、そして心地よいリラックスコピーだけに終わってしまうのであれば、すでに競争が激化している「ライトアウトドア」市場のトレンドの中に埋没してしまいます。今回のブランド拡張を成立させるのは、やはり TERREX が長年積み上げてきた製品力です。初心者は必ずしも素材やスペックを先に理解する必要はありませんが、雨が降ったとき、気温が下がったとき、路面が複雑になったときに、その力が確かにあると感じさせてくれる製品でなければなりません。

より理想的なのは、プロフェッショナルモデルの高いスペックを残しつつ、そこに至るまでの目に見えるステップを一つ用意することです。プロフェッショナルモデルは引き続き複雑な環境に高い機能性で対応し、エントリー製品はより日常的なコースや着用感、初心者の疑問に寄り添ったコミュニケーションを始めます。2つがそれぞれ異なる役割を担うことで、多様な習熟度を持つあらゆる層が、自分に合った最適なスタートラインを見つけられるようになるのです。

左:UTMB(ウルトラトレイル・デュ・モンブラン)に挑むTERREX契約アスリートの陳霖(チェン・リン)。右:『山川里』コンセプトフィルムが描くリラックスしたアウトドアの群像。最高峰のパフォーマンスという軸足を守りつつ、より身近で気軽な関わり方を包み込んでいる。画像出典:小紅書 @adidas TERREX、adidas『山川里』アウトドアライフ コンセプトムービー

ネーミングで消費者の興味を惹けても、定着させるには一貫した体験が必要

ネーミングによって第一印象の距離は縮まりますが、本当のハードルはその先にあります。

例えば消費者がトレッキングシューズを探すとき、難解な技術用語や素材スペックの羅列を理解させられるのではなく、自身の日常的な疑問や用途からスムーズに商品へたどり着けるでしょうか。あるいは店舗やブランドコンテンツには、プロ向けのグレードや難易度の高いルートだけでなく、一般的な生活者が自分に置き換えられる一日が描かれているでしょうか。

こうした要素が変わらなければ、「山川里」は店頭の印象が少し優しくなっただけに終わります。逆に、ネーミング、製品ポートフォリオの階層化、店頭での丁寧なコミュニケーション、そして実際の使用体験が一本の線として滑らかに繋がって初めて、ブランドは新規ユーザーを迎え入れるための導線を構築したと言えるのです。

現時点で公表されている資料から読み取れるのは、あくまでブランド側の戦略的な意図であり、消費者の受容度や売上データから「リブランディングが成功した」と結論づけるには時期尚早です。単に「カテゴリーの移行(カジュアル化)」というラベルを急いで貼るのではなく、今後はより具体的な変化の指標を注視していく必要があります。すなわち、「新規顧客がどのプロダクトをきっかけに初購入に至ったか」「既存のコア層が専門性への信頼を維持できているか」、そして「人々が『TERREX』という名を出さずとも、自然とadidasをアウトドアの選択肢として想起するようになるか」という点です。

今回のブランド戦略を構造的に分解すると、「山川里」が同時にアプローチしようとしているターゲットは主に3つの層に分類されます。第一に、TERREXの卓越した専門性をすでに信頼している既存のコアユーザー。第二に、もともとadidasブランドのファンであり、近年のトレンドに沿ってライトアウトドアに関心を広げている層。第三に、中国独自のローカルデザイン美学を好み、デザインの意図や文脈によってブランドに関心を持つ層です。ただし、これらはあくまでブランドの施策から読み取れる意図上のターゲティングであり、現時点でこれら3つの層を確実に獲得できていることを証明する定量的なデータはまだ存在しません。

京東(JD.com)のadidas公式旗艦店における検索画面。商品タイトルには新名称「山川里」と従来の「TERREX」が併記されている。新しいブランド名が購買インターフェースへ浸透しつつも、消費者が商品を探す上では、依然として既存ブランド(TERREX)による認知の手がかりを必要としている過渡期の状態を示している。画像出典:京東adidas公式旗艦店

専門性を損なわずに参入障壁を下げる手法とは?

「専門性を損なわずに参入障壁を下げる」というこの思考プロセスは、アウトドア市場だけに留まりません。専門的な技術や知識の蓄積が深いカテゴリーであればあるほど、初心者は「これは自分のような素人が踏み込んでいい世界なのだろうか」という距離を感じがちです。

ブランドが最初に取り組むべきは、ユーザーに「最初の一歩」のイメージを具体的に提示することです。

楽器カテゴリーであれば、「プロのように演奏をマスターする」という高い目標から語り始めるのではなく、「自宅の部屋で、聞き覚えのあるメロディーをひと節だけ口ずさむように弾く瞬間」を提示します。音色や打鍵感のクオリティは維持しつつも、いきなり消費者のスキルを試すような高いハードルを課さないアプローチです。

カメラカテゴリーであれば、ブランドが直面する問いは往々にして「スマートフォンで十分なのに、なぜもう1台持ち歩くのか」というものです。夜の散歩、週末の旅行、家族と過ごす時間などで、まずカメラがものの見方をどう変えるかを感じてもらってから、センサーサイズやレンズの話に入る方法があります。

モデルトイの場合も、誰もが1箱すべてを完成させなければならないと決めつける必要はありません。パーツを一つ組み立てる、シーンを一つ作る、あるいは好きな写真を一枚撮ることも、それぞれ始まりとして十分に成立します。組み立て、塗装、コレクション、撮影といった要素を、それぞれ独立したエントリーポイントとして再定義することができます

これらの共通点は、専門領域の深みやクオリティは保ちつつも、専門家にならなければその世界に入れないという偏見を取り払うことにあります。

広げたいのはアウトドアへの入り口

したがって、TERREX から「山川里」へのリブランディングは、まだadidasがカテゴリーの移行を完了したとは言えません。むしろ、プロフェッショナル向けのアウトドア製品ラインを、より幅広い人々に向けて翻訳しているのに近いのです。山の難しさは残しながら、山の中をもう少しゆっくり歩くことも受け入れているのです。

また、同じような動きをしているのはadidasだけではありません。同じ時期に、Nikeは「ACG」を単なる一製品ラインから独立した専門アウトドアブランドへと格上げし、Li-Ningも「万龍甲」や「行川」といった独自ラインを通じて東洋的アプローチのアウトドアを打ち出しています。大手スポーツブランドが一斉にアウトドアの文脈を再構築し始めているのです。道筋は異なりますが、リスクは似ています。adidas、山川里、TERREX、自由人、循山人と名称の階層が増えるほど、消費者の認知コストは高くなります。ライフスタイルの語りを盛り込みすぎると、TERREX がもともと持っていたプロフェッショナルな印象が薄まるおそれもあります。

この戦略が最終的に成功するか否かは、実際のプロダクトクオリティや店頭・デジタルでの顧客体験が、ブランド名に込めたイメージをどれだけ裏付けられるかにかかっています。しかし少なくとも「山川里」の取り組みは、すべてのブランド意思決定者に対して本質的な問いを投げかけています。自社の専門技術や信頼性が十分に確立された時、次に取り組むべきは自らの高度さを証明し続けることなのか、それとも門の外で足踏みしている人々に向けて「最初の一歩」を示すことなのか、という点です。